僕が初めて先生に殴られたのは小学4年生のとき。
遊泳禁止だった川で友達と泳いだ事がばれたとき。
ビンタされて、鼓膜が破れて、担任の先生と校長先生が家まで謝りにきたことを今でも覚える。
子供ながらに「これは僕がルールを破ったから」と、反省した事も覚えるし、親も「うちの息子がご迷惑をかけまして」と、鼓膜が破れた事なんかどうでもいいです、というような感じで先生が謝りにきた時に逆に謝っていたことを覚えてる。
その時の担任は重量挙げでオリンピックの候補まで上がった先生で、力があるので、相当痛かったと思います。(そりゃ、鼓膜破れるはっ・・・。)
学校にTV取材が来てインタビューされたこともあった。
TVにも出させてもらったし、男気のあるいい先生で大好きだった。
小学5年の時の担任は松本先生。
おばちゃんで、話をよく聞いてくれて、筋も通っていて大好きだった。
いいことはいい、悪い事は悪い、人によって態度を変える人ではなかったから。
でも、小学6年の時に、大人が嫌いになった。
やんちゃ坊主ってだいたい学年に2〜3人はいるものです。リーダー格だった僕には「あいつとは遊ばないように」って言って、他のリーダー各には「あいつ(僕)とは遊ばないように」と。
(それだけじゃないですけどね。。。)
ある時、そのリーダー格の友達と話してたら「え〜、お前も・・・」みたいな話になって。。。
だいたいつながっているんですよね。ともに同じ事言われてたんです。
「あいつとは遊ばないように」って。
尾崎豊じゃないですが、この時、この瞬間に、『大人って信用できん』って思ったんです。
で、ここから僕の「 vs 大人 」が始った(笑)。
はっきり言ってどうしようもないガキでした。
授業をボイコットしたり、授業中に家に帰ったり、先生がベランダの花に水やりをしにいくと窓の鍵を締めて出られなくして帰ったり・・・。
今、考えると、どうしようもない小僧です。これ小学6年です。
親が何回呼び出しをくらったかわかならいほど。
そして中学生に。
相変わらず目立ちたがり屋の僕ですが、小学校のときとは勝手が違いましてね。
僕は野球が好きで小学2年から野球やってて、少年野球のキャプテンでしたので、中学も野球部に入りましたが、意味なく、理由も無く先輩から訳のわからない説教や体罰がありました。
抵抗できないので受け入れるしかないので受け入れましたが、ある時先輩に聞きました。
「何でこんなことするんですか?」って。
そうしたら、「俺たちもやられてきたから」という答え。
・・・。言葉を失いました。
この時、大人が嫌いになったように「あ〜、中学ってこういもんなんだ」と、先輩も嫌いになった。
「自分がやられた嫌な事を何で後輩にやるんだ」と。
自分がやられていやなことを何で後輩にやるのか、意味が分からなかった。
この時に、僕は絶対に後輩にはそんな理不尽な事やらないって誓ったわけですが、運動神経がよく、野球もうまかった僕(すいません。自慢です)が試合に出してもらえなかったのは、ありあまるエネルギーをどこにむけたらいいかわからず、悪い意味で目立ってしまったから・・。
小学生時代より増して、幾度となく親が呼び出されました。
親父は会議だなんだと仕事が忙しいから、来るのはいつも母親。
しょっちゅう泣かれました。
そんなこんなで高校に入りました。
で、僕が高校1年の時、一番ぐれてたんでしょうか・・・。
そんな時、親父に辞令が下りました。
(僕は次男で、兄貴は野球で東海大一(今の東海大翔洋)の野球部で寮に入っていた)
某一部上場企業に務めていた親父から「インドネシアに行く事になった。行くとなれば最低5〜6年は帰って来れない。家には真由佳(妹)と母親しかいない、女しかいなくなるから、行くとなれば家はお前が守るしかない。俺は会社辞めてもいいから、お前が決めろ」と。
直感的に「親父が行きたいんだったら行けばいいじゃん。自分で決めれば」なんてかっこつけちゃったんです。本心ですが。
結局、親父はインドネシアのジャカルタに行った訳ですが、この出来事が、僕の分岐点となった。
遠州三山の「可睡斎」という寺にも入り、座禅をしたり掃除をしたり、障害者の子供達と一緒に過ごしたり。
親父の変わりに家を守らなきゃならないっていう責任感がわいて、当時の仲間とは一線を引き、改心したんです。
生き方を模索してました。17の時です。
子供だった僕は、親父に構ってほしかったのかもしれません。
でも、いなかった・・・。
そう考えると、あの時の親父って、ある意味で今の僕と似ている。
家のことなんて構っている暇なく、仕事に没頭していた。
でも、うちの小僧が、僕ほどやんちゃで、今同じような選択をしなければならない立場だったら、、、僕はどう選択し、息子にどう話をするだろう・・・。
悪さばかりしていた自分の息子を100%信頼して任せられるだろうか?
ここに親父の大きさを感じた。
口数の少ない親父だったけど、「ここ」という時に僕を信頼し、自分の生涯をかけ全身全霊で想いを語った。
結果的に、この出来事があって僕は大きく変わった。
大人が好きになった瞬間でもあった。
今思えば、島根県という田舎で貧しい家に育ち、高卒で集団就職のような形で浜松の会社に入り、努力して海外法人の社長となった親父はすごいと思うし、尊敬している。
いい大学に行って、有名な会社に入って・・・という教育とは真逆だけど、「自分のレールは自分で敷け」と背中で語ってくれた出来事だった。
前置きがずいぶんと長くなりましたが、今日はそんな親父と歳も近い渥美会長と品川で酒を飲んだ。
(遠くに見えるのは東京タワー)
色々と話しているうちに、そんな過去の出来事を思い出した訳です。
(少々酔っぱらっているのでその勢いで書いてしまおう、と。)
渥美会長は、今年5月までの2年間、アイジーワークス(協力業者会)の会長を務めてくれた方。
サッシ会社を30年以上続け、その会社は息子さんにバトンタッチし、歳は60を超えているが、生涯現役を宣言し、今でもイキイキとビジネスをしている。
制震ダンパーというものを、世界のHKS(フェラーリの足回りを作っている会社)と共同開発をし、今までの制震ダンパーとは桁違いのスペックのものを世に送りだした方。
まさに本物を生み出した方。
僕を息子のように可愛がっていただき、僕も、親父のように慕っている。
互いに、息子、親父という年齢差にあるにも関わらず、息子や親父に恥ずかしくて言えないような事を熱くなって語り合える。
ふと、そんな関係が「ありがたい」そう思ったし、今度親父とサシで飲もう、そう思った。
「人生はいつまでもチャレンジだよ。」
帰り際にそう言っていた。
「俺はまだ夢を叶えてないんだ」と、僕より二周り以上も年上で、親父と同じ年代の人からこの言葉を聞いたとき、僕たち若者が負けちゃいかん、そう思った。
このバイタリティー、とても心強く、魂を揺さぶった。
僕は息子に背中を見せているだろうか?
生き様を見せれる、かっこいい親父になろう。
いつもなら酔っぱらって寝ちゃっていますが、忘れないうちに書き留めよう、そう思って書いたのでおかしな感じかもしれません。
たまにはこんなのも。
さて、明日(もう今日ですね)は、
ビッグサイトにて弊社インスペクター菊池による講演がございます。
これからのiGに背中を見せて下さいね!
では、おやすみなさいませ。
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